堺市立新檜尾台小学校

令和6年11月

公開日
2024/11/06
更新日
2024/11/06

校長室より

ノーベル平和賞が、10月12日発表されましたが、被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」に授与されることになりました。被団協は、広島・長崎の被爆者・その関係の皆様が結成した団体で、核兵器の根絶を訴え、国内外で被爆体験の証言や署名運動を行っていることは皆様何となくご存じのことと思います。

恥ずかしながら、私は、前職の中学校に勤務するまで被団協という組織は知らず、被爆された方が有志で平和運動をされておられるのだろうという程度の知識しかなく、社会人として大いに反省した次第でした。被団協の組織を知ったのは、2016年現職米国大統領として初めてオバマ大統領が広島を訪問し被団協の代表と握手するシーンを中学校生徒と共にテレビで見た時でした。前勤務地の県は、たいへん平和教育に熱心な県でしたが、知識注入教育が主で児童生徒は平和について学んでいるものの広島や長崎に行ったことのある児童生徒が少なかったので、就任2年目から京都方面の修学旅行を1泊増やして広島の訪問を決め、更に被団協の関心を深めました。

生徒と共に下調べをして、広島平和公園での過ごし方を考え、活動として原爆の子の像に全校生徒で作った折鶴を捧げる、原爆死没者慰霊碑での祈りと学校の平和宣言を行いました。この活動に加え、爆心地から400m程の場所に4000度もの熱線は校内を火の海と化し学具を燃やし尽くした小学校が現存していいることを知り、訪問し被団協の語り部の方から直接話を伺いました。一瞬のうちに400人余りの児童と10人余り教職員が亡くなり、生存者は教員1名、生徒1名。 翌日この小学校は臨時病院・救護所となり、校庭では多くの亡くなった方が収容されたそうです。生々しい当時の様子が伺える校舎見学を語り部の方と回り、1日も早く核兵器のない世界を作らなければならないという語り部の方の熱い思いに涙する生徒もいました。

私は、学校に勤務して以来、いつも自己嫌悪に陥ることの一つに、「我が国は戦後あまりにも平和すぎて、子ども達に、〜戦争の悲惨さをどう伝えていくか〜」ということがあります。私は、年代として当然戦争は知らなく、昭和の初期に生まれた両親から、疎開や学徒出陣(軍需産業や食糧増産に動員されたこと)を聞く程度(この世代の親は積極的に戦争に関する話をすることは躊躇することも多くあった)でした。しかし、私は何とかして「戦争の過ちを二度と繰り返してはならない」ということは、子ども達に伝えていかなければと前職の中学校勤務時からいろいろ考え、行動することにしています。今回の被団協のノーベル平和賞の受賞を機に、教職員は勿論大人たちが次世代を担う子ども達に、過去の悲惨な状況を可能な限り知り、伝えなければならないと一層気持ちを強くした次第です。