■27年前の今日,「阪神淡路大震災」を忘れない
- 公開日
- 2022/01/17
- 更新日
- 2022/01/13
学園長より
27年前の1月17日を忘れない
当時の私は30歳。仕事は今と違って大阪梅田へ通勤する会社員でした。その3年前に結婚し兵庫県の三田市というところにマンションの11階で日々を送っていました。
27年前の1月17日。その日は3連休明けの初日でした。その当時“成人の日”は1月15日と決められていました。その年の暦ではちょうど土曜日と日曜日が成人の日につながった3連休になっていました。なのでよく覚えています。「あぁ,明日会社へ行かなあかんなぁ。3連休明けはしんどいな。」と思いながら前日の夜早めに床につきました。
翌朝,目覚めたのは午前5時30分。地震の起こる16分前です。自宅から会社まで約1時間30分の距離でしたので,いつもこの時間に起きていました。コーヒーを飲もうと,いつものように台所に立ちやかんを火にかけました。外はまだ真っ暗です。寒い朝だったので,寝ぼけまなこでガスの火で暖をとっていました。
5時46分,最初強い横揺れが起きました。「ん?」。食器棚がそのまま横滑りで自分のほうに向かってきます。火にかけたやかんからはジャブジャブと煮えたお湯がこぼれてきます。片手で食器棚を押さえ,片手で火を止め揺れが収まるのを待ちました。次に縦揺れ。ドカンドカンと体が上下に揺れました。実際には数十秒〜数分であったと記憶していますが,その時は「え?え?いつ止まるの?まだ?」と何倍もの時間に思えました。その間にも居間のほうではガチャンガチャンと物が倒れたり割れたりする音が聞こえてきます。
「えらい大きな地震や!」
揺れが収まった後,倒れたものなどを元に戻しそのままコーヒーを淹れ,テレビを見ながら朝食をとります。(私が住んでいた三田市は兵庫県の中でも北部にある山間部のニュータウンでしたので,直接的な被害はあまりなく死者も出なかったのです。)
東京キー局のテレビを見ていたので,地震のことは大きくは触れられず(速報のテロップレベル)私自身もいつもの時間に家を出発しバス停へ向かいます。バスも時間どおりに来て駅へ向かったのです。駅に着き,そこで初めて事の大きさに気づきました。駅にはいつ動くのかわからない列車を待つ人でホームはあふれかえっていました。私自身も1時間ほど待ちましたが動く気配すらありません。公衆電話にも長蛇の列が出来上がっていました。三田市は大阪・神戸のベッドタウンとして当時全国一,人口増加率が高い街として注目されていたところです。なので急激な人口増加に公共施設が間に合わないような状態でした。駅前は雑然と人であふれかえっています。携帯電話は出始めたところです。私自身持ってはいましたが,全くつながらない状態です。公衆電話もいつ空くのか全く読めない状態です。私はどこにも連絡がつかない状態のまま,バスで来た道を徒歩で自宅まで戻りました。
そのころにはテレビでも地震の状況を伝え始めていました。特に在阪局の朝のテレビでは内容を変更して報道していました。映し出される映像を見るにつけ声も出ません。唖然としたまま見続けていました。それでも会社へ行こうと電車をあきらめて車で自宅を出ましたが,少し走ったところで大渋滞。ラジオからは刻々と地震の被害が報告されています。1時間くらいたったでしょうか数メートルも進まず,あきらめてUターンしましたがそれも渋滞です。結局自宅へ戻ったのは,お昼を回ったころでした。その間も携帯電話で片っ端から連絡を取ろうと試みましたが全くつながりません。自宅の電話も同じ状態です。結局会社へ連絡が取れたのは3日後のことでした。4日目の朝,意を決して妻とともに車で大阪の会社へ向かいます。自宅から大阪の自宅までは約80kmほど離れています。少し進んでは止まり,途中寸断されている道路では迂回の指示に従いながら一般道路を歩くよりも遅いスピード進みました。途中のガソリンスタンド,コンビニ,商店などどこも人であふれています。道路・鉄道が寸断されて物資が届いていないのです。ガソリンスタンドでもガソリンがありません。コンビニ・商店に立ち寄っても棚には商品が全くありません。リュックを背負い道路を延々と歩いている人たちの列。ぼう然と倒壊した自宅を見ている人たち。倒れた高速道路。一部陥没した一般道路。何かが焼けたにおい。ひどい状態のまま,会社に着いたのは深夜近かったと覚えています。数日間は自宅待機ということで大阪の実家で過ごしました。大阪の実家は被害もなく,電気・ガス・水道(ライフラインといいます),食料もいつもどおり。ほんの数十キロ違うだけでこんなにも・・そんな気持ちになったことを覚えています。
数日後,会社へ戻りましたが被災した社員への対応。企業として社会に貢献できることに尽力することの指示が出て対応に走り回ったり,休日には神戸市灘区に住む友人宅へ救援物資を届けたりと自分自身にできる限りのことをしたと記憶しています。
友人と連絡が取れた時には涙があふれました。友人も結婚していたのですが,奥さん・本人とも怪我なくかろうじて元気でいるとのこと。何か必要なものは?と聞くと開口一番に「飲料水」,そして「懐中電灯」「即席めん」「簡易コンロ」でした。日頃,蛇口をひねれば衛生的な水が出て,スイッチを押せば明るく暖かな電気が灯きます。台所ではすぐに調理できる火がつきます。そんな当たり前の生活が一変してしまっていました。大阪のスーパーやコンビニで持てるだけ,車に詰める限りの物資を買い車に詰め込み,友人数名で神戸市灘区へ向かいました。行けるところまで車で行き,その後は徒歩で友人宅へ向かう段取りです。途中で車を乗り捨てて,両手に背中に背負えるだけ物資を持ち同行した友人たちと焦る気持ちを押さえながら歩を進めました。被災地で出会ったときはみんなで抱き合いました。「良かった良かった」みんな涙々の再会です。
その後1年間ほどは,本格的な仕事ができませんでした。実際に知人や会社関係者で命を落とした人もいます。
「天災は忘れたころにやってくる」
常日頃から,防災感覚を持ち突然の災害に対する備えをしっかりしておく必要があります。
阪神淡路大震災
発生年月日 平成7(1995)年1月17日 午前5時46分
震源地 淡路島北部
規模 マグニチュード7.2
人的被害 死者6,432名
住家の被害 全壊が約10万5千棟、半壊が約14万4千棟
学園長 中曽一彦