堺市立三国丘中学校
【堺市立三国丘中学校。教育方針】
時を守り 場を清め 礼を正す
「主体的な学びの場の創造」「防災という教育を通して”命”を学ぶ」
【未来をつくる堺教育プランより】
先人から受け継いだ自由・自治の精神,歴史・文化を継承し,
優れた文化を創造できる教育を推進します!!
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今日の一言 6月11日 あがる(緊張すること)
- 公開日
- 2025/06/11
- 更新日
- 2025/06/11
校長雑感 一隅を照らす
写真:中学校で初めての期末テストを終えて* * * * * *「第九! 何百回、演奏したかわからない。それでも、緊張して、手が震える。それどころか、年齢を重ねるほど、音を出すのが怖くなる・・・体に染み込むほど練習し演奏して来た曲なのに、入りが怖くて、休みの小節を一生懸命に数えてる!!」日本でトップのオーケストラの団員で、ティンパニー奏者としても日本で頂点に立っていた人でした。定年退職間近の頃にそう言っていたそうです。・・・昨晩、40年近くプロの打楽器奏者として活躍している友人と会いました。このティンパニー奏者のはなしは彼から聞きました。彼自身も同じように緊張するし「あがる」そうです。「本番で手が震える。ここ20年ぐらいそうなんだ」「ボレロのスネアで手が震えたら最悪だよ」ラベル作曲の「ボレロ」の冒頭は、スネアドラム(小太鼓)が「タン・タカタタン・タカタタン・タン・タンタカタタン・タカタ タカタ タカタ」というリズムを、ソロで、しかもピアニシモで演奏します。そして、全曲を通してずっとこのリズムをたたき続けます。この曲で、スターになるのは、打楽器奏者です。だからこそ、手が震えるのです。彼はこう付け加えました。「プロは、誰でもわかるような間違いは絶対にしてはダメだからね」・・・カラヤンが率いるベルリン・フィルは、昔から名手ぞろいで有名でした。オーボエ界では、今でもレジェンドの「ローター コッホ」という演奏家もベルリン・フィルの団員でした。ある日、日本のオーケストラでモーツアルトのオーボエ協奏曲を演奏することになりました。彼は、もう何度となく演奏した曲です。名手中の名手です。そんな彼が、これから本番という直前までステージの袖で、2楽章のあるフレーズを何度も何度も練習していたそうです。レの音から1オクターブ上のレの音にレガートで跳躍するパッセージです。吹いても吹いても、「ダメだ」と言うように、首を振り、更に繰り返し何度も何度も練習を続けるのだそうです。顔色はだんだん青白くなり、手も震えています。見るからに緊張していることが見てとれたそうです。・・・そして、本番!それはそれは素晴らしい演奏だったそうです。特に、レからオクターブ上のレに跳躍する件の個所は、この世のものとは思えないほど美しかったそうです。・・私が学生時代、先生(元NHK交響楽団団員)に仕事をもらって、先生といっしょに演奏会に出たことがありました。いよいよ本番というとき、弟子の私はずいぶん緊張して見えたのでしょう。薄暗いステージ袖で「名人だって、あがるんだがら、お前があがって当たり前!」とはなしてくださったのが、この話でした。***だれでも、あがる・緊張する。「それで、いいんだよ」中学生のこどもたちには、誰かの前で発表したり、今日の定期試験のように自分を試されるような機会がたくさんあります。さぞ緊張することでしょう。大人になればなるほど、緊張が増すことがあります。緊張しなくなると、もうそれで、成長がなくたったということ、緊張していいんだという人もいます。とにかく、こどもたちには、いろいろな経験、いろいろな想いを味わって、強くたくましくなってほしいと願っています。 -
一学期期末テスト 6月11日
- 公開日
- 2025/06/11
- 更新日
- 2025/06/11
学校百景
「テスト、うまく行った?」
元気のいいピースで応えてくれました!!
また、明日も、頑張ろう!!
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今日の一言 6月10日 寛容と不寛容
- 公開日
- 2025/06/10
- 更新日
- 2025/06/11
校長雑感 一隅を照らす
卒業生の大学生が学校に遊びに来ました。ひとしきり思い出話に花を咲かせた後、こんな質問をしてきました。
「どうも最近のニュースが暗くてかないません。SNSでもTVでも攻撃的な物言いや
『論破!』とか言って、分かり合うことより、勝ち負けを争っているような場面が目立っているように思います。」
『息苦しいですね。何がいけないんでしょうか?!何が必要だと思いますか?」
私も、最近どんどん息苦しさが増してきたように感じていました。こんなお話をしました。
「欠けているのは、寛容ではないでしょうか。」「寛容には、想像力が必要です。」
「自分の持っている想像力では、理解できないことがある・・・という想像力です。」
ずいぶん前に読んだ、渡辺一夫というエッセイストが著した「狂気について(岩波文庫)」というエッセイから影響を受けていました。多分こんな内容だったと記憶しています。人類の歴史はある意味で寛容と不寛容との争いの歴史だ。寛容と不寛容は歴史の中で多くの場合、不寛容が勝ってきた。なぜなら不寛容の方が、寛容よりはるかに攻撃的であるからだ。寛容は防衛的で、不寛容は攻撃的である。恐ろしいのは、寛容と不寛容の歴史の中で、寛容が不寛容と戦う中で、寛容が自ら不寛容になっていくことである。*****私の回答をどのように受けとめてくれたでしょうか。皆さんはどう思われますか? -
今日の一言 6月9日 直立不動の祈り その4
- 公開日
- 2025/06/09
- 更新日
- 2025/06/04
校長雑感 一隅を照らす
翌日、広島滞在の三日目。
90歳の息子さんとそのお母様とお父様、そしてご兄弟に導かれるように比治山に登りました。
比治山の陸軍墓地は、大阪・真田山の陸軍墓地にとても似ていました。
立ち並ぶ灰色のお墓の合間合間に、出身都道府県の名が白く見えます。
お墓の列を突っ切って奥の奥まで行くと、彼らが戦地へと旅立っていった宇品港を一望することができました。
澄み渡る青い空、はるか遠くに、安芸小富士(似島)と宮島が、キラキラ光る海の上に浮かんでいます。
ここに眠る兵隊さんたちは、今でもここに立って、あの小富士を眺めているのだろうか?
戦地に旅立った想いを抱いたままに・・・
私は、できるなら一緒にここから離れて故郷に戻ってほしい、もう充分過去を背負ってきたのだから。お願いだから・・・
しばらく海の方に向かって手を合わせました。
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給食 6月9日
- 公開日
- 2025/06/09
- 更新日
- 2025/06/09
給食
今日は、子どもたちが大好きなカレーでした!!
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今日の一言 6月6日 直立不動の祈り その3
- 公開日
- 2025/06/06
- 更新日
- 2025/06/04
校長雑感 一隅を照らす
「立川の陸軍航空隊からは、特攻で何人もの戦友が飛んで散っていきましたが、私は行くことなく助かりました。原爆投下の後、広島に戻ったのは、8月の終わりでしたか、いや9月1日だったかな・・。。」
「勿論、今立っているところには何もありませんでした。ここから、比治山、宇品の方まで見えました。とにかく悲惨なものでした。家族は全滅です。」
「私は広島から東京に再び戻り、商売を始めました。順調でした。ビルを建てるほどになったんですよ。でも、東京には友達もいないし広島に帰りたいと家内が言うので、全部引き払って、ここに戻ってきました。原爆ドームが見えるところにしようと、川向こうの本川小学校のすぐ横に住んでいます。そこもビルです。細長いですが。毎朝、8時15分には散歩に出て、平和公園をぐるっと周るんです。」
・・・広島で是非、見ておいた方がいいというところはありませんか?
「比治山の陸軍墓地に行ってみてください。」
「国を守るため、宇品港から出征した全国各地の兵隊さんのお墓があります。しばしば行きます。兄の墓もあります。あそこに行くと、戦争はもうこりごりだと思いますね」
* * * *
まだまだお話を伺いたいという想いを残しながら、またいつか平和公園で会いましょう、と約束してお別れしました。
私は、その足で「国立原爆死没者追悼平和祈念館」(写真)に行きました。
ひょっとしたら、この方のご家族のお写真を見ることができるのではないかと思ったからです。
この施設は、原子爆弾死没者の尊い犠牲を銘記し、追悼の意を表すとともに、永遠の平和を祈念するため、国によって被爆地である広島と長崎に建てられました。
近代的な建物です。地下に通じる大きく円を描くスロープを下りていきました。そこには原爆死没者検索装置と呼ばれる個々の死没者をお名前から検索できるシステムがあります。
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彼の父母、兄弟姉妹の皆さんの写真を見つけることは、そんなに難しいことではありませんでした。苗字をインプットし検索するとすぐに見つかりました。住所も間違いありません。どこでどのように亡くなったか・・記載がありました。
どこか遠くのお話しのようだった彼から聞いた話が、ご家族の写真を見ることで突然身近に迫ってきました。
私は、1泊2日のつもりだった広島滞在をもう一日延ばすことにしました。
そうです、比治山に行くために・・・
(つづく)
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給食 全員喫食 5日目 6月6日
- 公開日
- 2025/06/06
- 更新日
- 2025/06/06
給食
+2
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登校風景 6月6日
- 公開日
- 2025/06/06
- 更新日
- 2025/06/06
学校百景
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合唱コンクール 曲決め 6月5日
- 公開日
- 2025/06/05
- 更新日
- 2025/06/05
3年
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秋の合唱コンクールの曲決めをしていました。
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今日の一言 6月5日 直立不動の祈り その2
- 公開日
- 2025/06/05
- 更新日
- 2025/06/04
校長雑感 一隅を照らす
私は、今90歳です。当時、立川の陸軍航空隊にいました・・・・
私には、兄弟が7人いました。長男は昭和17年に戦死。街で最初の戦死者となり、婦人会の方たちがずらっと並んで兄の遺骨を迎えてくれました。私はその列の前を白い箱を首から下げて歩きました。
しばらくして私は志願して陸軍の航空隊に入りました。入隊許可の文書(大臣が発行)を誇らしげに母に見せると、母は「お前もか」と泣きました。
あの時、母は泣きましたがでも生き残ったのは、私一人・・・運命と言うのでしょうか。皮肉なものです。
* * *
この平和公園の場所には、4400名ほどが暮らしていました。映画館が数件在り、広島の中でもそれは賑やかな所でした。私は川向こうの河原町に住んでいましたが、よく来たものです。
代々のお墓もありました。墓地の跡として墓石が一つだけ残っています。行ってみますか。そのお墓は、数十センチ低いところにあります。公園にするために土を盛ったのです。ここのほんとうの土地の高さはこのお墓の立っている地面の高さです。
でも、ここから元安橋へ向かう道が少し曲がっているでしょ。これは昔のままなんです。元安橋の角っこに観光案内所があるでしょ。数年前、その場所で水道工事のために穴を掘るというので、見に行ったことがあります。すると地面の底から、昔のコンクリートの道が出てきました。この道は私がよく通った道でした。
* * *
彼は感慨深そうに元安橋の方に目を向けます。しばらく話が途切れました。
・・・・・
「ところで、原爆投下の後、立川から広島には戻ってこられたのですか?」
わたしの不躾な質問に彼は答えました。
8月の終わりでしたか、いや9月1日だったかな?
・・・・・彼のはなしはまだ続きます。
(つづく)